Masukイベント当日。
電車の中で何度も深呼吸をしていた。
黒いワンピース。薄くメイク。
三十一歳らしく、落ち着いた雰囲気を心がけた。
若作りして浮くのが一番怖い。蓮くんのファンは二十代前半が多い。
私なんておばさんの部類だ——そう思いながら、会場の劇場に到着した。
入り口には長い列。
みんな、私と同じように緊張した顔をしている。
でも、その目はキラキラと輝いていた。
座席は前から五列目。
ステージがよく見える。
隣に座った女の子同士の会話が聞こえる。
「ねえ、今日のお渡し会で何渡す?」
「手紙と、クッキー焼いてきた!」
「えー、すごい!私は色紙」
みんな準備万端だ。
私はというと、手紙を一通。
便箋三枚に、五年間の感謝の気持ちを綴った。
何度も書き直して、やっと完成したもの。
——これを、蓮くんに渡せるんだ。
照明が落ちた。
ステージに光が当たる。
会場がどよめく。
そして——彼が現れた。
「こんにちは。柊木蓮です」
声。
生の、柊木蓮の声。
いつもイヤホン越しに聞いていた声が、空気を震わせて直接耳に届く。
「今日は『月夜の恋文』朗読劇イベントにお越しいただき、ありがとうございます。精一杯お届けしますので、最後まで楽しんでください」
深々とお辞儀をする蓮くん。
黒いシャツに、濃紺のジャケット。
すらりとした長身。
柔らかく微笑む表情。
写真で見るより、ずっと綺麗な人だった。
朗読劇が始まる。
物語は、戦場に向かう騎士と、彼を想う令嬢の恋。
二人は文通でしか想いを伝えられない。
蓮くんが演じるのは、騎士。
『——君の手紙を読むたび、僕は生きる理由を思い出す』
低く、優しく、それでいて切ない声。
『どうか、待っていてほしい。必ず、君のもとに帰るから』
胸が締め付けられる。
演技なのに、本当に誰かを想ってるみたいに聞こえる。
声だけで、こんなにも感情が伝わってくる。
朗読劇が終わる頃には、会場中がすすり泣きで包まれていた。
私も、泣いていた。
「……ありがとうございました」
蓮くんの声が震えている。
彼自身も、感情が入りすぎて涙ぐんでいるようだった。
カーテンコール。
鳴り止まない拍手。
「皆さんの温かい拍手が、本当に嬉しいです。ありがとうございます」
何度も頭を下げる蓮くん。
そして——お渡し会の時間。
列に並びながら、ずっとドキドキしていた。
手紙を握りしめた手に、汗が滲む。
「次の方、どうぞ」
スタッフに促されて、前に進む。
そこに、蓮くんがいた。
「こんにちは」
笑顔。
目が合った。
「あ……こんにちは」
声が裏返る。
最悪だ。
「今日は来てくれてありがとうございます。お手紙、ですか?」
蓮くんが手を差し出す。
綺麗な手。
指が長い。
「は、はい……あの、いつも応援してます」
震える手で、手紙を渡す。
「ありがとうございます。後でしっかり読ませていただきますね」
蓮くんが手紙を受け取る。
その時だった。
私のバッグから、何かが落ちた。
カラン、という音。
「あ……」
ボールペン。
瑠璃色の、お気に入りのペン。
とんぼ玉が埋め込まれた、綺麗なペン。
いつもバッグに入れている。
蓮くんが、それを拾い上げた。
「これ……」
彼の手の中にある、私のペン。
「すみません、ありがとうございます」
慌てて受け取ろうとした瞬間、蓮くんの表情が変わった。
「……あの」
え?
「もしかして、以前もイベントに来てくれました?前のラジオ公開収録の時」
——覚えてる?
まさか。
「は、はい……半年前の、渋谷での……」
「やっぱり。覚えてます」
蓮くんが微笑んだ。
「その時も、同じペンを持ってて。とんぼ玉が綺麗だなって思って。印象に残ってたんです」
心臓が止まりそうになった。
覚えてる。
蓮くんが、私のことを。
「ほ、本当ですか……」
「はい。また会えて嬉しいです。これ——」
蓮くんがペンを差し出そうとした、その時。
「次の方、お時間です」
スタッフの声。
蓮くんの手が止まる。
「あ……すみません」
私は慌てて頭を下げた。
スタッフが私の肩を軽く押す。
列を進めなければならない。
「あの、これ——」
蓮くんがペンを差し出そうとしたが、私はもう次の位置に移動させられていた。
蓮くんの前には、次のファンが来る。
彼は視線を私から外し、次のファンに笑顔を向けた。
「こんにちは」
私は、列の外に出た。
ペンは、返ってこなかった。
——蓮くんが、持ったまま。
会場を出てから、私はしばらく立ち尽くしていた。
「……ペン」
呟く。
あの瑠璃色のペン。
蓮くんが、持ってる。
スマホを取り出して、康太に電話をかけた。
呼び出し音。
すぐに繋がる。
「どうだった?」
電話越しに聞こえる、康太の声。
「康太……信じられないことが起きた」
「何?」
「蓮くん、私のこと覚えててくれたの」
受話器の向こうで、康太が息を呑む気配。
「……は?」
「半年前のイベントで会った時のこと、覚えててくれて……」
声が震える。
「康太がくれたペンのこと、覚えててくれたの。とんぼ玉が綺麗だって」
電話越しに、康太の声が跳ね上がった。
「待って、それやばくない?」
「でも、ペン……返してもらえなかった。スタッフに時間だって言われて……蓮くんが持ったまま」
「え?」
「ごめん、康太。せっかく東京行く時にくれたペンなのに……」
電話の向こうで、康太が笑った。
「いや、待って」
「え?」
「むしろチャンスじゃね?」
受話器を握る手に、力が入る。
「だって、蓮くんがお前のペン持ってるんだろ?返さなきゃいけないって思うんじゃね?店のペンだし、一点物だし」
康太の店——奈良でとんぼ玉の雑貨を扱う店——で作った、特別なペン。
「お前、連絡先とか教えたの?」
電話越しに聞かれて、首を横に振る。
「教えてない……」
「じゃあ、もしかしたら蓮くんから連絡来るかもよ」
そんなわけない。
でも——
「……もしかしたら」
小さく呟いた。
家に帰ってからも、興奮が冷めなかった。
何度もイベントのことを思い返す。
蓮くんの笑顔。
声。
言葉。
そして、彼が手に持っていた瑠璃色のペン。
——また、会えるだろうか。
ベッドに入って、いつものように目覚ましアプリをセットする。
「おやすみ。いい夢を」
蓮くんの声。
今日は、どんな夢を見るんだろう。
翌朝。目が覚めると、康太はもう出かけていた。枕元に、メモが置いてある。『今日も打ち合わせ。夜は7時には帰れると思う。無理しないでね。—康太』文字が、少し急いで書かれている気がした。——忙しいんだ。——康太も、大変なんだ。スマホを見る。時計は、午前7時30分。会社に行く時間。でも——行きたくない。昨日の佐々木さんの言葉が、頭から離れない。『水野さん、最近様子がおかしいですよね』田中さんの反応。『うーん……まあ、疲れてるのかも』——みんな、気づいてる。——私がおかしいって。それでも——休んだら、負ける。蓮くんの思い通りになる。重い体を起こして、着替える。鏡を見る。目の下のクマが、さらに濃くなっていた。ファンデーションを厚く塗る。でも——隠しきれない。コンシーラーを重ねる。口紅を塗る。——大丈夫。——普通に、振る舞えば。マンションを出る。エレベーターに乗る。階数表示が、下がっていく。5、4、3、2、1。エントランスに出る。外は、曇っていた。灰色の空。冷たい風。駅に向かう。いつもの道。でも——今日も、背後に視線を感じる。振り返る。誰もいない。——また、気のせい?——それとも……。電車に乗る。座席に座る。スマホを取り出す。SNSを見る。また、蓮くんの話題。『柊木蓮、復帰決定!?』『新作アニメのキャスト発表間近!』『蓮くん、おかえり!』ファンたちが、盛り上がっている。スクロールする。『被害者の女、まだ諦めてないらしい』『会社でも問題起こしてるって噂』『精神的におかしいんじゃないの?』『蓮くんに執着しすぎ』『早く諦めればいいのに』手が、震える。——会社でも、問題?——誰が、そんなこと言ってるの?——佐々木さん?スマホを閉じる。電車が、揺れる。会社の最寄り駅に着く。降りて、オフィスビルに向かう。エレベーターで、7階へ。編集部のドアを開ける。「おはようございます」いつもの挨拶。でも——反応が、明らかに違った。田中さんが、目を逸らす。他の同僚も、私を見て、すぐに視線を落とす。——何?——何があったの?不安が、胸の奥に広がる。自分のデスクに向かう。座る。パソコンを起動する。そのとき——佐々木さんが、私を見た。その目が
夕暮れ。空が、オレンジ色に染まっている。スマホを取り出して、康太に電話をする。呼び出し音が鳴る。でも——出ない。留守電になる。「康太……今、大丈夫? 電話してほしい」メッセージを残す。電話を切る。——打ち合わせ中か。——夜、遅くなるって言ってたし。駅に向かう。電車に乗る。窓の外を見る。流れる景色。でも——心は、ここにない。佐々木さんのことが、頭から離れない。『水野さん、最近様子がおかしいですよね』その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。——様子がおかしい。——みんな、そう思ってる。——田中さんも、そう思い始めてる。電車が、揺れる。マンションの最寄り駅に着く。降りて、マンションに向かう。夕暮れの道。人通りが、少ない。そのとき——背後に、足音が聞こえた。振り返る。誰もいない。でも——確かに、聞こえた。足音。私を、追ってくる足音。——気のせい?——それとも……。足早に、マンションに向かう。エントランスに入る。鍵を開けて、中に入る。エレベーターに乗る。5階。ドアが開く。505号室。鍵を開けて、中に入る。ドアを閉める。チェーンロックをかける。——やっと、安心。リビングに入る。康太は、まだ帰ってきていない。静かな部屋。一人。ソファに座る。スマホを見る。康太からの返信は、まだない。SNSを開く。タイムラインを見る。また、蓮くんのことが流れてきた。『柊木蓮、復帰の噂!』『新作アニメで声聞けるかも!』『蓮くん、待ってた!』ファンたちが、喜んでいる。スクロールする。『でも、あの事件の被害者、また騒いでるらしいよ』『警察に行ったけど、証拠不十分で門前払いだって』『やっぱり狂言じゃん』『蓮くんの復帰を邪魔しようとしてるんだよ』『最低』『こういう女、許せない』涙が、溢れそうになる。スマホを置く。膝を抱える。——誰も、信じてくれない。——会社でも、疑われてる。——SNSでも、叩かれてる。——康太は、忙しくて電話に出ない。——一人だ。——本当に、一人になった。そのとき——スマホが震えた。メッセージが来た。康太から。『ごめん、今打ち合わせ終わった。これから帰る。夕飯、一緒に食べよう』少し、安心する。でも——胸の奥の不安は、消
翌朝。目が覚めると、康太はもう出かけていた。テーブルの上に、メモが置いてある。『先に工房に行くね。今日は打ち合わせが入ってる。夜は遅くなるかも。何かあったらすぐ電話して。—康太』文字が、優しい。でも——どこか、距離を感じる気がした。——考えすぎ、だよね。スマホを見る。時計は、午前8時を指している。会社に行く時間。でも——行きたくない。昨夜のSNSの言葉が、頭から離れない。『メンヘラ女の狂言でしょ』『蓮くんを陥れようとしてる』『最低』それでも——休んだら、負けだ。蓮くんの思い通りになる。重い体を起こして、着替える。鏡を見る。目の下に、クマができていた。ファンデーションで隠す。口紅を塗る。——大丈夫。——普通に、振る舞えば。——誰にも、気づかれない。マンションを出る。エレベーターに乗る。階数表示が、ゆっくり下がっていく。5、4、3、2、1。エントランスに出る。外は、曇っていた。灰色の空。今にも雨が降りそう。駅に向かう。いつもの道。でも——背後に、視線を感じる。振り返る。誰もいない。——また、気のせい?——それとも、本当に誰かいる?足早に駅に向かう。改札を抜けて、ホームに上がる。電車が来る。乗り込む。座席に座る。スマホを取り出す。昨夜の『SecureChat』アプリ。確認してみる。でも——やっぱり、消えている。アイコンも、受信履歴も。何もかも。——本当に、あったのかな。——私が、見た幻?不安が、胸の奥に広がる。電車が、揺れる。会社の最寄り駅に着く。降りて、オフィスビルに向かう。エレベーターで、7階へ。編集部のドアを開ける。「おはようございます」いつもの挨拶。でも——反応が、少し違う気がした。田中さんが、少し目を逸らす。他の同僚も、視線が泳いでいる。——気のせい?——それとも、本当に避けられてる?自分のデスクに向かう。座る。パソコンを起動する。メールをチェックする。仕事のメール。会議の案内。でも——集中できない。周りの視線が、気になる。みんな、私を見ている気がする。「おかしい」って、思われてる気がする。——違う。——考えすぎだ。——普通に、仕事をすればいい。深呼吸をする。そのとき——編集部のドアが開
その日の夕方。会社から電話がかかってきた。「もしもし」「水野さん、上司の佐藤です」少し緊張した声。「はい」「あのね、水野さん。最近、早退が多いけど、体調大丈夫?」「はい……すみません」「それと——」佐藤さんが、少し言いにくそうに続ける。「他の社員から、相談があってね」心臓が、跳ねる。「相談……?」「水野さんの様子が、最近おかしいって」「え……」「精神的に不安定なんじゃないかって。仕事にも影響が出てるって」胸の奥が、冷たくなる。——みんな、気づいてる。——私がおかしいって、思われてる。「一度、産業医と面談してもらえないかな」「……はい」電話が切れる。手が、震える。——職場でも、疑われてる。——精神的に不安定だって。康太に、電話の内容を話す。康太の顔が、険しくなる。「会社も、お前のこと理解してないのか」康太が、低い声で言う。「でも……」「美月、少し休んだ方がいいかもしれない」康太が、私の手を握る。「休職……?」「ああ。このままじゃ、本当に壊れる」康太の目が、心配そうだ。でも——どこか、疲れている気もする。——休職。——でも、それは逃げることになる。——蓮くんに、負けることになる。「考えとく……」康太の顔を見る。優しい目。でも——少しだけ、疲れている気がする。何度も、心配をかけてる。何度も、迷惑をかけてる。このままじゃ、康太の心が離れていくんじゃないか。その恐怖が、胸の奥に広がっていく。夜。ベッドに入っても、眠れない。目を閉じると、いろんな顔が浮かぶ。山田刑事の冷たい目。上司の心配そうな声。田中さんの遠慮がちな笑顔。みんな、私を疑ってる。精神的に不安定だって。嘘をついてるって。——誰も、信じてくれない。——康太以外、誰も。スマホを見る。SNSを開く。タイムラインに、蓮くんの名前が流れてきた。『新作アニメ「蒼穹の守護者」、主人公の声は柊木蓮くんで見たい!』『蓮くんの声、また聞きたい!』『早く復帰してほしい!』ファンたちのツイートが、並んでいる。みんな、蓮くんの復帰を待っている。スクロールする。すると——『柊木蓮が干されたのって、女にハメられたんじゃない?』『ストーカー事件って言われてるけど、本当かな』『被害者ぶってる女の方が怪しい
翌日。康太と一緒に警察署に向かった。朝から雨が降っていた。冷たい雨。傘を差しても、服が濡れる。「大丈夫。俺がいる」康太が、私の手を握ってくれる。でも、手は震えていた。警察署に着く。受付で名前を告げると、また応接室に通された。山田刑事が入ってくる。その表情が、前回より冷たい気がした。「水野さん、お忙しいところありがとうございます」「いえ……」「こちらの方は?」「浅井康太です。美月の……恋人です」康太が、私の隣に座る。山田刑事が、少し眉をひそめた。「今日は、水野さん一人でお話を伺いたかったのですが」「美月を一人にはできません」康太の声が、低い。山田刑事が、ため息をついた。「……わかりました」資料を開く。「改めて確認させてください。三日前の夜、手紙が玄関のドアに挟まっていたと」「はい」「その時、誰か見ましたか?」「いえ……部屋に入ってから気づいたので」「防犯カメラの映像を確認しましたが、不審な人物は映っていませんでした」山田刑事が、私を見る。「水野さんが部屋に入る前の3時間、誰もそのドアに近づいていません」「そんな……」「カメラの死角から近づいた可能性は?」康太が聞く。「可能性としてはゼロではありません。ただ——」山田刑事が、少し間を置く。「その場合、かなり防犯カメラの位置を把握している必要があります」——蓮くんなら、できる。——あの人なら、絶対にできる。「それから、筆跡鑑定の件ですが」山田刑事が続ける。「手紙の筆跡は、柊木蓮本人のものではありませんでした」「でも、似てました」私が言う。「確かに似ていますが、専門家の鑑定では別人です」山田刑事が、私を見る。その目が、冷たい。「水野さん、正直にお答えください」「……はい」「あの手紙、ご自身で書かれたのでは?」「違います!」声が大きくなる。康太が、私の肩に手を置く。「それはないです」康太が、山田刑事を睨む。「柊木蓮が、誰かに書かせたんです」「それを証明する証拠は?」「……ありません」康太が、悔しそうに答える。「では、こちらも証拠がない以上、柊木蓮を逮捕することはできません」山田刑事が、資料を閉じる。「水野さん、もう一度お聞きします」その声が、さらに冷たくなった。「あの手紙は、本当に誰かから届いたもので
翌日の朝。康太と一緒にマンションを出た。エントランスを抜けると、春の風が頬を撫でる。桜の花びらが、舞い落ちていた。三年前の春にも、こうして桜を見た。蓮くんと付き合い始めた、あの春。あの頃の私は、まだ何も知らなかった。「今日も迎えに行くから」康太の声が、いつもより少し低い。昨夜の手紙のことを、まだ気にしているんだろう。「ありがとう」駅で別れる。康太は渋谷の工房へ。私は会社へ。電車に乗り込む。いつもの景色が、窓の外を流れていく。でも今日も、周りの視線が気になる。誰かが私を見ている気がする。スマホを握りしめる。大丈夫。気のせい。そう自分に言い聞かせる。でも手は、震えていた。——もう大丈夫なはずなのに。——なんで、まだ怖いんだろう。出版社に着く。「おはようございます」いつものように挨拶をする。デスクに座って、パソコンを立ち上げる。メールが山積みになっていた。今日は著者との打ち合わせがある。資料を確認する。原稿のチェックリスト。修正箇所のメモ。集中しなければ。仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済む。それだけが、今の私の救いだった。「水野さん、おはよう」隣の席の田中さんが声をかけてくれる。30代前半の女性。いつも明るくて、優しい人だ。三年前、私が復職した時も温かく迎えてくれた。「今日は顔色いいね。少し元気になった?」「はい、大丈夫です」嘘だった。昨夜もほとんど眠れなかった。康太の部屋で、康太の匂いに包まれていたのに。それでも目を閉じると、蓮くんの顔が浮かんだ。「良かった。無理しないでね」田中さんの優しい笑顔が、少しだけ心を軽くしてくれる。午前中。打ち合わせは、無事に終わった。著者は穏やかな人で、修正箇所についても丁寧に対応してくれた。こういう仕事が、私は好きだ。本を作る仕事。誰かの物語を、形にする仕事。昼休み。田中さんが「今日もランチ行く?」と誘ってくれた。「はい」近くのカフェに行く。パスタとサラダを頼む。二人で向かい合って座る。「水野さん、最近大変そうだけど、何かあった?」田中さんが心配そうに聞いてくる。彼女の優しい目に、少しだけ胸が詰まる。「……ちょっと、色々あって」曖昧に答える。「康太くんとは、大丈夫?」田中さんは、康太のこと